髪を噛む癖やめてーなー

あのとき、逃げて正解だったと思う。

強く、強く、そう思う。

今まで逃げた事実が自分の浅ましさだとか弱さとか、無責任さとか自己保身とかを表しているようで、その記憶を消そうと頭を打ち付けたり、大声をだして取っ払おうとしてきた。死にたいなんて言葉を使ってその場限りの贖罪を試みようとしていたけれど、それは全部、逃げた事実に対して行おうとしていたんじゃない。

犯された現実を消してしまいたかっただけだということが分かった。

別に、実際に体をもてあそばれたわけでもないし、そういう行為に及んだわけでもない。

それでも、やっぱり、振り返るとちょっとしたあの人の言葉の気持ち悪さだとか体を見られた時の瞳だとか、そういうものが期待を宿していたものだっていうことが分かる。

あれは、絶対そういう類のものだった。

大人になんてわからないと嘆いて暴れ回っていた私に言ってやりたい。

「おい、お前のしんどいものをやっと見つけられたのは20をこえた私だぞ。つっぱねていた大人がお前をわかってやれる最初の1人なんだぞ!」

なんて。気持ち悪い。

そういう前兆は沢山あった。

当時、運動部に所属していた私は無駄にスポ根漫画の世界に憧れていた。親がそういった漫画を持ってたこともあるし。(スラムダンクとかね、バスケだけに熱中することが正義だとしか思えないだろ)

私は元から固定的な友達がいなくて、いつも流動的なその場限りの友人しかいなかった。人と関係を作る、という隠れコマンド並みの学校の裏設定を頭の足りない私は理解することができていなかった。幼すぎた。精神的未熟児。ガキすぎる私は振り返ると、都合が良い人間だ。グループからあぶれた子は私の側にいけば、とりあえずはクラスのはぶれものになることはなかった。そうして、一定期間、あぶれっ子のお咎めが許されると彼女は私の元から離れ、代わりに新しいあぶれっ子がやってきた。私は中学の時1人で過ごした記憶は沢山あっても、傍には必ず誰かがいた。不思議だ。休日に連絡したり、ましてや遊びに行く子なんて皆無に等しいのに、なぜか私は学校の日常で、傍に誰かがいたという記憶を持っている。そんなに女子のグループでは常に事件が起きていたのか、みんな大人だ。

私は、いつも夢見る子どもだった。そんな現実のいざこざになんて気づかないほどだから、筋金入りだ。頭おかしいんじゃないか、マジで。

そのとき見たものに自分を仮装させることはお手の物だった。私はお姫様になれたし、探偵になれたし、人間と狐のハーフ(不思議な魔術を持った)になることがいつでもできた。イタタタ……

たぶん、そのときハマっていたのがスポ根だったんだと思う。ちょうど、私の友人(仮)Aが運動部に入ることを誘ったし、体を動かすことに関心を示す、つまり子供らしく遊ばない私に苛立っていた父親を安心させたさも相まって、スポーツというものにちょっとした興味を持っていた。とはいっても、興味を持っても私はスポーツすることのキツさを知らなかった。筋トレが体の筋肉を重くさせることも給食を吐くほど外周することも、私は知らなかった。体を動かすことは慣れるまで、結構しんどいことだった。でも、ハジメテって何でもそうなんだよ。私はなんとか、毎日のメニューをこなすために自分を仮装させた。スラムダンクを読んだ。そうだ!私は、桜木花道だ!自分は主人公なんだから、言われたメニューもこなせるし、無駄に自主練だって頑張っちゃう。先輩に近づくことも恐れないし、試合に負けたらこの世の終わりみたいに泣ける(そしたら連載終わっちゃうし)。私は自分の生活を劇的にさせた。無駄に青春なんて言葉を使ってみた。外見を取り繕うことは得意なんだ。馬鹿みたいに、昔から。

先輩から、学校以外で練習できる場所を紹介してもらった。家から自転車で30分ほど走った場所にある小さな遊技場だ。設備は一応、揃っているから来ないかと言われた。もちろん、二つ返事で私はハイ!だ。だって、私、スポ根漫画の主人公だもん。けど、帰り道に私は迷子になった。行きと違う道で帰りたいなんてはしゃいでしまっていた。橋を渡る必要があった。私の家に帰るためには。けど、私は視界にその橋が映っているのにどうすれば辿り着けるのかがわからなかった。その橋は国道にそっていけば、簡単にたどり着けるのだが、私は家の並木道を歩いてみたくて国道からそれた下道を選択してしまった。下道から国道に戻るには遊技場に一端、戻らなくてはならなかったのだけど、もう日は傾いていて暗かった。太陽が無駄に背丈の高い山に隠れてしまって、辺りは暗闇だった。私は泣いた。とりあえず、前に向かって自転車を押しながら歩いてみた。そうすれば、誰かにあえると思った。心細かった。だから、ガソリンスタンドを見つけたときはとても嬉しかった。煌々とした光に救われた。店の人に電話を借りて、母に電話をして向かいに来てもらった。私の頭上にかかる橋を見上げた。橋の街灯から自転車が2台走っているのを見た。先輩だった。目が悪いから、顔の表情は見えない。でも、直感的に分かった。あ、目が合ったって。笑ってたかもしれない。不思議がってたかもしれない。無関心だったかもしれない。けど、私は再び分かってしまった。私は主人公じゃない。少なくとも、あの先輩たちの間では。迎えに来た母は車から降りるとまっすぐに私の元に走ってきて、何も言わずに右手を振り上げた。

私は、学校の部活が急に肩身がせまくなった。気がした。けど、そんなことおくびも周りには示さずに、相も変わらず主人公をしていた。私はコテ入れが必要だと思った。師を欲した。そしたら、気もちのわだかまりがとれるのではないかと思った。相も変わらず、現実を見ようとしなかった。

その人は50を過ぎた人だった。外部コーチだと先輩は言っていた。哺乳類よりも爬虫類に分類した方がいい見た目だった。人を選別するような細い目が理科の授業で見た教育番組に出て来たカメレオンを思い出した。それでも、スポーツに対しては誠実で選手に礼をつくそうとしていたから、人間だということが分かった。

私はその人に習った。休日もその人はいたし、長期休暇も、特に予定はなかったから、ひたすらその人の元に通った。技術はある程度、上達した。地区大会では優勝することもできたし、県大会までなら進むことは簡単にできた。でも、それだけだ。結局、フリなのだから劇的にうまくなることなんてなかった。それでも、私は努力という言葉に魅せられて、そのフリを積極的に行った。

その人は簡単に騙されていた。私は、素直で幼い生徒を装っていたから、そんな気持ちの元に彼の前にいることを気づいていなかった。彼は、私を勝たせることに積極的だった。生きがいのようなことを口にしていた。週に4度は会っていた。フォームを強制するために携帯のビデオに動きをとってもらった。変な癖がついている動きは体に触れて直してもらった。私は、そんなこと勝つためには当たり前ですよね、という顔をしていた。バーカ。

不安が胸に宿ったのは、その人とあって4年目の春だった。来週、大会があるからでてみないかとその人に誘われた。その日は学校の入学式だった。それなのに、私は二つ返事ではい、でますと言っていた。まだ、漫画は打ち切られていなかった。

大会の場所は電車で1時間かかる距離のところだった。その人は車で送ってくれると言ってくれた。お金もかからないし、学校の人にあわないことの安心感から私はその人に厚意に甘えた。それがいけなかった。

大会は2回戦負けだった。すぐに負けて私自身、びっくりした。くやしさよりもなんで私はここにいるんだという気持ちの方が強かった。学校行事をさぼって、新しい出会いをさぼって、私は今、何を手にしているのかと。焦燥感、というものが目の前に現れた。怖かった。急に、何かに置いて行かれているように思った。

その人は惜しかったな、と声をかけて帰る支度をはじめていた。

帰りの車、私は無駄に明るく喋っていた気がする。喋って喋って喋りまくった。その人も笑っていた。なんだか、いつもよりも浮かれているような空気が車内に漂っていた。負けたという事実を2人で消すように努めてもいた。

その人は唐突に言った。もしおれが10代とか高校生だったら、お前のこと好きになっていたかもしれない。ほんとうに突然だった。嫌な言葉を拒否するのが自慢の私の耳すら、その言葉を拾っていた。その人は他にも言葉を続けていたけれど、記憶には残っていない。さっきの言葉の延長をずっと喋っていた。

マックに寄ろう、と言われた。私はすぐに帰りたかった。この場からいなくなりたかった。けれど、断ることを私は知らなかったから、曖昧に頷いてしまった。おごってやると言われた。固形物はのみ込めないと思った。シェイクを頼み、その人はハンバーガ―を食べた。足を組みながら。口の中を見せながら。ハンバーガーを食べていた。租借音は聞こえなかったフリをした。早く帰りたかった。

家の近くのセブンで下ろしてもらった。その人は今日の労いをしてくれた。私は、簡単なお礼を言うと、その場からすぐに去ろうとした。飲んだシェイクが予想外に冷たすぎてお腹をこわしていた。トイレに駆け込みたかった。その人は、今日帰るのが寂しいと言った。名残惜しいと。おもむろに携帯を取り出して、私がいなくなるのが寂しいから少し会えない時のために撮っていいかと言われた。断れなかった。断り方を知らなかった。逃げ方を知らなかった。拒否、というものが私の中に存在していなかった。ピロ、と撮影音が響いた。何か喋ってと言った。けど、言葉は出てこなくて、その人の今日の様子を尋ねる声と私の笑おうとする声だけが携帯の中に吸い込まれていった。動いて、とも言われたけれど、こんな狭い車内でどう動くのが正しいのかわからなかった。私は笑い声に合わせて肩を揺らしてみたりした。

満足したように目を伏せて顔の筋肉が下に全部ずり下がって動画を確認しているその人がとても気持ち悪いと思った。気持ち悪い、気持ち悪い。しゅうしゅう、口から出る息が目に見えた気がした。目に見えないはずのその人の生きている跡が生々しく視界に入ってくるようだった。それはこの車中にこびりついていて、早く家に帰りたくて、私は今日のお礼を手短にいって、さよならをして、家に向かって駆け出した。

何だったんだ、あれは、あれは、一体、何だったんだ。

気味が悪かった。私はそのとき自分の体をリアルに感じていた。

さらに気持ち悪いことに、その日の夜、生理が来た。

もう、最悪だった。全てが最悪だった。

私は、その人のところに行かなくなった。全く、というわけではないけれど。社会人と集まって練習をするときとかもあったから、そういう日はその人と顔を合わせたりしていた。けれど、遅刻をしていくようになった。なるべく、人が沢山集まっているときにあおうとすると、練習が始まってから1時間がたってからになってしまった。それでも、その人は怒ろうとしなかった。遅刻とか、気もちのたるみとかを許せない人だったはずなのに。全く、私に怒らなかった。

ある日、学校の部活が休みだったからいつもより早く電車で家に帰ることが出来た。母も仕事が休みだったから、送ってもらうことにした。電車から降りて駅の入り口に向かおうとした。そのとき、その人が私の目の前にいた。手をあげて、偶然だね、久しぶりと言った。全然、偶然じゃないと偏見まみれに私は思った。これは、絶対。

この前、付き合いたいとか言ったけど、あれは冗談みたいなもので、おれはちゃんとお前を一生徒として接していきたい。育てていきたい気持ちがある。だから、また前みたいに一緒に練習しよう。もっと、上手くなれるから。

言葉が声にのらなかった。笑い声しか出なかった。

ありがたかったのは、まだ日中で駅員さんがいて降りる人も案外いたことだった。そして、母が車で、外にもう待ってくれていたこと。ほんとにほんとにありがたかった。

母が待っているので、と言って私はすぐにその場を後にした。早く発車してと私は言った。けど、母は止まったままだった。どうして、と顔を上げるとその人が私たちが乗る車に向かっていたからだった。その人は私が座る助手席の窓から顔を出して母に向かって言った。娘さん、また練習に来るように言ってあげてください。指導者としても、育てたいんですよ。

震えた。

それでも、しょうこりもなく私は社会人練習に加わっていた。遅刻はしなくなった。その人と顔を合わせないようにすればいいだけだ。あうとしても2人でいる場を割けるよう気を配った。けど、今度はその人は私を家まで車で送ってあげると言った。断った。母が迎えに来てくれるからとすぐにその場を去った。けど、練習場から私の家は近いからいつも歩きであることをその人は知っていた。後ろからクラクションを鳴らして遠慮しなくていいよと車にのせた。私は2分ほどの移動距離をスマホの液晶をずっと開いていた。それがずっと続いた。私はあるときから、車の影に隠れることにした。姿を隠せば大丈夫だと思った。その人の車が練習場から消えるのを待った。帰ろうかと思ったが、私の家路からその人の車が現れるのを見ることを避けたかった。1時間、私は外で車や建物の影に隠れた。人がいなくなるまで、練習場の灯りが真っ暗になるまで。

私は練習場を変えた。その人がいない練習場を求めた。知り合いは何人かいたから、その人たちにいくつか練習場を紹介してもらった。けど、その人は顔がきいていて、私よりも界隈の知り合いが多かった。一か月もするとその人は同じ練習場にいた。そうして、その場では喋らなくても帰りのときに送ってあげるよと言われた。車で帰る方が楽だと言ってくれたけど、もう私は乗れなかった。

それなのに一度、同年代の子にその押し問答を見られたくなくて駅までならと車に乗せてもらったことがある。その人は途中、コンビニによって私にフツーツジュースのペットボトルを私に渡した。駅に一度、つくと周囲には誰もいなかった。まずいな、と思った。家まで送るとその人は言った。私は笑った。笑って、何とか嫌悪を表そうと思った。その人はまだ何かを言っていた。私は電車で帰る、そればかりを言って車を飛び出した。駅員さんがいた。私は駅員さんの近くに身を隠した。帰りの電車はホームの反対側だった。私は外から姿が見えないよう、体を低くして移動した。泣けてきた。靴紐は縦に傾いていて姿がおかしかった。

その人からの電話やメールが沢山きた。怠慢だと私を責める言葉が目についた。無理だと思った。もう、無理だ。私はもう、その人にあわないことを伝えた。練習場にもいかないことを言った。

大会で私に練習場を紹介してくれた子やその人を知る同年代の子が尋ねてきた。その人と何があったの?噂話をするときみたいな軽口で、非難めいた口調でその言葉を聞くと、私がどんなふうに周りから思われていることは分かった。何でもないよ、方向性の違いってヤツ?そんなことしか言えなかった。

逃げて正解だったよ。逃げてよかった。

あなたの感じた違和感と行動は正しいものだった。

よかった、ようやくそう思えた。